- 日本のブラジルバンド『バンダ・マンダカリーニョ』
- ここ東京でかなり注目されているライブハウス、六本木Clapsで緑と黄色が爆発した。
八木美楠子の指揮の下、アメリカ・キューバ・ブラジル・オーストラリア、そして日本出身のミュージシャンがバンダ・マンダカリーニョを作っている。
7月31日のこのライブは、ブラジル人や日本人のファンとオーディエンスで満席だった。
バンドの歴史は10年前。
八木美楠子がとあるイベントのために、パウリーニョの愛称で呼ばれたパウロ・セザール・ゴメスに参加してもらってビッグバンドジャズを作曲したことに始まる。
たくさんの話し合いやリハーサルの後、八木美楠子、パウリーニョ、ミュージシャン達は、この大胆な芸術的プロジェクト実現のために団結することを決めた。
「ブラジル音楽をビッグバンドで演奏してみたいという強い気持ちがありました。ミュージシャン達の相性も良く、ブラジル音楽でまたひとつになっているのです」と八木美楠子は言う。
「ブラジル音楽はリッチなハーモニーを持ち、情熱的で、音楽的にとっても豊かです。このグループのために色々な曲をアレンジをしました」
そして2011年、バンダ・マンダカリーニョは最初のライブを敢行した。
しかし、悲劇がグループを襲う。パウリーニョが病に倒れ、翌年亡くなったのだ。
メンバー全員が深い悲しみに襲われた。しかし、彼の意志を継ぎ、バンダ・マンダカリーニョは活動を続け、今まで沢山の場所で演奏を続けている。
「私たちは友達を失って、悲しみにくれました。しかし、私たちが演奏する時、パウリーニョは心の中でいつまでも生きています」と八木美楠子は言う。
グスターボ・アナクレートが編曲した「パウリーニョのボレロ」で讃えられています。
八木美楠子が人生で寂しく道を失っていた時、彼女はまだポルトガル語も知らなかったのだが「Ivan LinsのCoragem Mulherという曲が、エネルギーと前に進もう、音楽をやっていこう、という気持ちをくれたのです」と話している。
八木美楠子は日本人で、その当時はポルトガル語をほとんど理解していなかったが、現在は勉強して完璧に話している。彼女はアメリカの大学でジャズを勉強したのだが、そこでCidinho Teixeiraという偉大な友達との出会いがあり、彼が八木美楠子にブラジル音楽を教えたのだ。
「すぐにブラジル音楽の虜になって、このすばらしい音楽を勉強し始めたのです」。
バンダ・マンダカリーニョのメンバーは音楽を教えたり、他のバンドで演奏するなど、それぞれの活動をしている。しかし、いつもバンダ・マンダカリーニョで集まってすばらしい演奏をしている。
次のライブはまだ未定だが「次は来年。。。レコーディングも考えています」と八木美楠子は言う。
歌手Izadoraはライブを見て、バンダ・マンダカリーニョ(manda=届ける+carinho=愛情:示唆的なバンド名)のパフォーマンスに感銘を受けた。彼女はライブの中でのIvan Linsの曲のアレンジとブラジル音楽の中で最も偉大な作曲家Jobimのメドレーと「dindi」が際立っていたと話していた。
もう一つの特別な瞬間は、伝統的な「ハッピーバースデー」の曲がバンドの巧みな演奏で聴けたことでした。「シンプルな曲がメロディの巨人になったみたい」とIzadoraは言います。そして「いつか、このステキなバンドで歌いたいな」と打ち明けてくれました。
バンドメンバー達のファンでも友達でもある飯島芳樹・Regina夫妻は「このバンドはすばらしくて、音楽的センスがイイ。ブラジル音楽を広めているよね。美楠子の夢はね、Ivan Linsとレコーディングすることなんだって、知ってるんだ」と言っている。リオデジャネイロ出身のReginaは日本人の芳樹と結婚25年になる。東京で世界中のミュージシャン、とりわけブラジル人ミュージシャンが集まる「コルコバード」というライブハウスをやっていた。
Célia Kataoka (Jornal das nações 特派員)
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